チェルノブイリ原発事故から20年
チェルノブイリの傷はいつ癒え始めるのか?
チェルノブイリ原発事故が起きてから20年になりました。
原子炉
1986年4月26日、ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号炉が爆発炎上して、大量の放射能をまきちらしました。原子炉から半径30kmの範囲や300kmもはなれた高汚染地域が永久に居住禁止となり、500もの村や町が消え、40万もの人びとが故郷を失いました。放出された放射能のために大人にも子どもたちにもガンや白血病などの病気が多発しました。
事故後のチェルノブイリ原発4号炉の様子=1986年撮影
事故の放射能は8000キロもはなれた日本にも飛来し、当時は牛乳を飲む、飲まないといった議論も広くおこなわれましたが、20年がたったいまでは、そうした記憶も多くの人びとにとって遠い過去の話になっています。事故の年に生まれた若者も、はや20歳。史上最悪といわれるこの事故を知らない世代がふえています。
焼けこげたチェルノブイリ原発の第4原子炉の管制室=2000年11月撮影
しかし、現在も汚染地域には500万人の人びとが暮らしています。現地では、甲状腺ガンや白血病、そのほかの疾病はいぜんとして多発しており、その傷跡はいまも続いています。高い汚染地域からの移住した人びとは生活環境の急変のために苦しい生活をしいられながら、運命と向きあい、懸命に暮らしています。
汚染地域の風景
長期的な観点から最も厄介な放射能汚染はセシウム137(半減期30年)によるものであります。ベラルーシ、ウクライナ、ロシア各国で移住の対象となっているセシウム137の汚染密度が1平方km当り15キュリー以上の面積は1万平方km余りに達し、また、いわゆる
汚染地域である1平方km当り1キュリー以上の汚染地域の面積は、3ヶ国合わせて約13万平方kmに及び、600万人以上の人々が住んでいます。
被災者の状況:チェルノブイリ事故による被災者は以下のように分類されます。
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事故時に原発に居合わせた職員や消防士たち:1000〜2000人
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事故の後始末や汚染除去作業に従事した人々:60万〜80万人
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事故直後に、周辺30km圏から強制避難した住民:13万5000人(11万6000人という数字もあります)
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事故の数年後より高汚染地から移住した住民:数10万人
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汚染地域に居住している住民:600万人以上
周辺住民の健康悪化には、事故後の社会的、経済的変動やそれにともなう栄養状態の悪化、されには精神的ストレスなど、多くの要因が複雑に絡みあっていると考えられ、健康悪化が認められたとしても、それが被曝の影響であるとは直ちには言えないでしょう。しかし、そうした社会要因の多くが事故によってもたらされたものであるなら、健康悪化の第一原因がチェルノブイリ事故にあると考えることは尤もな考え方であります。
事故処理作業に従事した人々は、リクビダートル(ロシア語で後始末する人)と呼ばれています。破壊された原子炉周辺の片づけから30km圏の除染作業など、数年間の間に60万人から80万人の人々が作業に従事しました。
リクビダートル達=1986年撮影
「石棺」の建設作業は、事故から2ヶ月後には始まっています。つまり、建設作業に取りかかれるよう、それまでには破壊された原子炉の周辺の片づけが終わっていたということであります。最初に建屋周辺の片づけにあたったのは、徴兵年齢の若い兵士たちでした。リクビダートルの中でも、彼らの被曝が最も大きかったと考えられますが、放射線測定器もろくに持たずに作業にあたったことが知られています。
石棺
リクビダートルの健康悪化は極めて深刻であります。作業にあたった年度別にリクビダートルの健康悪化を比較すると、作業時期が早いほど健康状態の悪い傾向が認められ、このことは、健康悪化の原因が作業当時の被曝であることを示唆しています。
周辺地域の家畜に放射性物質が
蓄積され、肉、ミルク等も汚染された。
事故後放棄された村
「チェルノブイリ」という言葉は、世界の人々にとって、技術的性質の事故の結果、我々の惑星に打撃を与えた放射能の傷の象徴になりました。この傷は、20年経過した今もまだ癒えません。相変わらず、ウクライナ、ベロルシア、ロシアの数千平方キロメートルが荒れ果てた野原に変質し、生活や経済活動に不適切な地帯のままであります。
「チェルノブイリ市」。居住禁止30km圏内、チェルノブイリへの道路の標識
放射危険のため家を捨てた数万人の人は、故郷に戻ることができません。悲劇の最も中心部、チェルノブイリ原発でも、まだすべてが順調になっているわけではありません。事故との我々の長いこの戦争で今重要なことは発電所の破壊された第4号炉の新しいシェルターの建設を勝ち取ることです。建設することによってのみ、チェルノブイリの傷から癒え始めることができるのです。
2006年4月26日、ウクライナの首都キエフ市やチェルノブイリ市の教会でチェルノブイリ原発事故の追悼行事が行われました。
キエフの教会で行われたチェルノブイリ原発事故の追悼行事に参加する女性たち。
ウクライナ各地で多くの国民が午前零時すぎ、黙とうをささげました。
ウクライナ大統領のヴィクトル・ユーシェンコはその行事やチェルノブイリ原発での20周年記念集会に参加しました。
ウクライナ大統領のヴィクトル・ユーシェンコ
(2006年4月26日、チェルノブイリ原発での20周年記念集会。写真:prezident.gov.ua)
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1986年4月26日、ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号炉が爆発炎上して、大量の放射能をまきちらしました。原子炉から半径30kmの範囲や300kmもはなれた高汚染地域が永久に居住禁止となり、500もの村や町が消え、40万もの人びとが故郷を失いました。放出された放射能のために大人にも子どもたちにもガンや白血病などの病気が多発しました。
(原子力資料情報室・CNIC・cnic.jp)
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チェルノブイリ原発事故
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放射能汚染、被災者の状況、放射能災害に関する国際共同研究報告書、ソ連政府委員会レポート等。京都大学原子炉実験所原子力安全研究グループによる。
(京都大学原子炉実験所・rri.kyoto-u.ac.jp)
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チェルノブイリの傷はいつ癒え始めるのか?
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「チェルノブイリ」という言葉は、世界の人々にとって、技術的性質の事故の結果、我々の惑星に打撃を与えた放射能の傷の象徴になった。この傷は、20年経過した今もまだ癒えない。相変わらず、ウクライナ、ベロルシア、ロシアの数千平方キロメートルが荒れ果てた野原に変質し、生活や経済活動に不適切な地帯のままである。(ロシア・ノーボスチ通信社・rian-japan.com
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ゴーストタウン チェルノブイリの映像 -
カワサキNinjaでチェルノブイリを訪れた「エレナさん」によるツーリング旅行記の日本語訳。
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ウクライナ大統領のヴィクトル・ユーシェンコはチェルノブイリ原発での20周年記念集会に参加しました。(prezident.gov.ua ウクライナ大統領公式サイト。英語版)
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史上最悪の核施設の惨禍をもたらしたウクライナのチェルノブイリ原発事故から20年となった26日、同原発周囲30キロの「立ち入り禁止区域(通称ゾーン)」内の各地で、犠牲者をいたむ追悼式典が開かれた。数百万人が被災し、日本を含む北半球全域に放射性降下物を拡散した事故の痛恨の記憶が再び全世界の人々の脳裏に刻まれた。同原発跡地に近い広場で正午過ぎから開かれた追悼式典には、ユーシェンコ大統領ら政府要人、元原発職員など500人以上が参列。大統領は、「事故は地域の人々の家庭を壊し、社会を壊した。我々は皆さんの社会を再生・復興するために全力を尽くす」と述べた。(mainichi-msn.co.jp MSN毎日インタラクティブ)
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チェルノブイリ事故から20年後の世界 その1@インディペンデント -
世界最悪の原発事故は放射能まみれの不毛の地を作り出した。しかし、自然はひび割れたコンクリートを突き抜ける。チェルノブイリの悲劇の第四原子炉の残骸から1マイル足らず。世界最悪の原発事故によって放射能汚染された大地の上でエルクの番が無頓着に草を食んでいる。近くのプリピャチ、あの恐ろしい1986年の或る日の午後強制避難させられるまで50,000人が生活していた薄気味悪い空っぽの町では、ソ連の町の風景は急速に野生のヨーロッパの森に侵食されている。
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チェルノブイリで昔、大規模な事故があったんですよね。今から何年前ですか。教えてください。お願いします。 -
Yahoo!知恵袋にある、この質問の回答。
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チェルノブイリ原発事故直後の写真 -
チェルノブイリ原発事故直後の写真だそうです。説明は英語です。訳。
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